top of page

「ウィーン わが夢の町」(アンネット・カズエ・ストゥルナート著 新潮社) 

執筆者の写真: 直樹 冨田直樹 冨田

更新日:2023年2月13日

 昨年、東洋人として初のウィーン国立歌劇場合唱団の団員として長年歌ってきた著者が同合唱団を定年退職する日、つまり最後の公演を追ったNHKBSのドキュメンタリー番組を見ました。それまで名前はなんとなく知っていた程度。最初はぼんやり見ていたその番組は著者の生きざまを垣間見せてくれ、つい最後まで見てしまいました。それでさっそく本を購入して、年明けに読んでみました。日本での最終学歴は24歳で定時高校卒。自殺未遂3回。すごい人生行路を経た女性でした。そこに至る道は「とても一言では語りつくせない様々な出来事があった」と序章に書いています。この本のタイトルは『ウィーン 夢の町』ですが、日本での部分が本全体の2/3、ウィーンでの活動・生活が1/3です。

 1938年生まれの著者はお父さんの仕事の関係で幼少期を満州で過ごし、戦争が終わってもすぐ帰国できず、主に母親や兄弟と中国を転々としました。やっと岡山に帰り小学校に入ったのですが、中国生活が長かったため日本語がうまくしゃべれずドモリになり、クラスのだれとも話ができなくなりました。しかし歌だけはうまく、また歌を歌うときはドモらないので、学芸会などでたくさん歌を歌ったそうです。この頃、NHKラジオの「のど自慢素人音楽会」に出て一等賞を取り、賞金をもらいました。その賞金は家族の1か月分のお米が買える金額で、以後、母親から賞金を目的としてあちこちの「のど自慢大会」に出させられました。中学2年時に延焼で家が全焼して家族がばらばらに。広島に移って高校に入るも結核で長期療養するため高校を中退。その後、手に職をつけるため准看護婦になって働きました。結核療養中に「本格的に歌を勉強したい」という気持ちが芽生え、音大に入るため、親戚の養女となって東京に行き定時制に通い24歳で卒業しました。定時制高校に通いながらプロの声楽家に師事し、卒業後に音大(東京芸大と武蔵野音大)を受けましたが、どちらも不合格。それで声楽の先生からプロの合唱団の試験を受けてみるように勧められ、それには合格。しかし音大卒が多いその合唱団で高校卒の著者は冷たい視線を浴び続けました。例えば、休憩時間に本を読んでいると、「あなたは音大を出ていないのだから、本じゃなくて楽譜を読まなくてはダメでしょう」と大声で嫌味を言われたこともあったそうです。以後、日本を脱出するまでの5年間、合唱団で歌って生活していきました。

 以上が日本での人生行路。後半がウィーンでの生活です。

 日本の音楽界で仕事をしている限り、いくらガンバっても「音大を出ていない」と言われ続ける。このままでは道は開けない・・・。それで1969年、31歳で日本に見切りをつけ、ウィーンで歌の勉強をしようと、当時一番安いシベリア横断鉄道に乗ってヨーロッパに行きました。なぜウィーンで歌の勉強をしようと決意できたのか? それは、あるヴィオリニストのコンサートの前座を何回か務めた際、そのヴァイオリニストからウィーンに行ってみてはどうかと勧められたからです。教え子がウィーンの国立音楽院に通っているし、夫人はドイツ人でウィーンに親戚がいるので面倒を見てくれるから、と。それで退路を断ってウィーンに行くことに決めました。ウィーンに到着するとまず語学学校でドイツ語を学び、しばらくして声楽の先生を自分で見つけました。その見つけ方がおそろしいというか唖然とする方法(上述のヴァイオリニストの『面倒を見てくれる』は生活面だけのようです)。何のアテもなかったので電話帳を開いて「歌」と「教授・指導」のAから順番に見てBの蘭にあった名前の人に電話をすると「すぐにいらっしゃい」と言われました。それが、ウィーン国立歌劇場で歌っていたというバブリシカ先生でした。以後、長年にわたって同先生に指導を受けることになります(幸運!!)。個人指導を受けてしばらくしてある時、バブリシカ先生からウィーン音楽大学を受けてみるように勧められました。先生はしり込みしている著者の背中を押して見事に合格。さらに1年経った頃、またもやバブリシカ先生に勧められて、ウィーン国立歌劇場のオーディションを受けて東洋人初の合唱団員になったのでした。バブリシカ先生の問い合わせに合唱団事務局は「東洋人は絶対無理だ」と言ったとか。オーディションのエピソードも面白いのですが、それは省略します。

 さて、東洋人であるために、合唱団でもまたひどい差別を受けます。その差別が終わるきっかけのなったのが、カラヤン指揮のオペラ公演のリハーサルでの彼の一言でした。当時、妊娠していてつわりがひどかった著者はお腹がすいて仕方なく、ソーセージなどホンモノの食べ物が出ている舞台上で、その後方に下がってはそれらの食べ物をこっそりモグモグ。すると「おい!そこの青い衣装を着た人!さっきから食べてばかりいるが、あなたは通行人(エキストラ)か?それとも歌手か?」とカラヤンのメガホンが響きました。すると周囲がさっと引き、著者ひとりにスポットライトが当たっている状態になりました。(普段から私に冷たく当たっている団員たちが、明らかに、私が何か失敗をして、カラヤンに叱られるのを期待している視線だった)と著者は感じました。イライラしているカラヤンはステージに上がってきて1対1で対峙する形になりました。その時初めてその女性が東洋人であることに気が付きました。

「君はどこの国から来たんだ?」

「私は日本から来ました・・・歌手になりたくて・・・71年から、ウィーンオペラ座の団員を務めています・・・実は私、今、妊娠中で・・・つわりがひどくて・・・お腹がすいて我慢できなくて・・・申し訳ありませんでした・・・」

この時、著者はこのオペラから降ろされると思いました。クビになったら、他の劇場でも仕事ができなくなるのではとの不安も頭をかすめました。しかし、次のカラヤンの一言は著者の心配とは正反対のものでした。

「そうか・・・日本から・・・よく、あんな遠い所から一人でやってきたね」

そう言ってカラヤンは著者を抱きしめ、周囲にいる人たちに大声で言いました。

「みんな、聞いてくれ。この娘は東洋の果ての、日本という国から一人でやってきた。私は、日本に何度も公演に行っているから、どんなに遠い所か、よく知っている。寂しい思いをしているに違いない。どうかみんな、これから、彼女の支えになってあげてほしい」

この声を聞いて、著者はその場で膝をついて号泣しました。そして翌日から4年間に及んだ著者に対する差別がピタリと止まりました。その時、著者は「カラヤンは私の顔を見て一目で私の苦悩を見抜いた」と感じました。


 著者が夢をつかむことができた要因は何でしょうか?まず歌がうまかった、つまり才能がありました。それから夢をあきらめないで必死に努力する性格でした(これも才能)。その才能と性格ゆえか人に恵まれ、運にも恵まれました(例えば、電話帳でバブリシカ先生に出会えたこと)――それを著者は「(私には)守護天使が付いている」と表現しています――。さらに抜群の行動力。そしてプロの合唱団に所属していたため、ホンモノに触れる機会があったことも見逃せません。こんなシーンがありました。1967年にNHKが主催した「イタリア歌劇団」に参加した著者は、イタリアから来た一流歌手の歌声(声量)にドキモを抜かれました。「(彼らの声は)教室で練習してきたものではなかった。千人、二千人が詰め込まれる大劇場で鍛えられた声だった」。そして、音大を卒業した日本人歌手による数々のオペラ公演に「あれは一体何だったのか」と??マークがつき、「私のような音楽大学を出ていない者でも、もしかしたら道は開けるかもしれない」という希望が湧いてきたのです。

 この本の出版は2005年、著者が67歳の時にNHKラジオ番組「ラジオ深夜便」に出演したことがきっかけでした。「歌いたい――。その思いだけを、命綱のように握りしめて、今日まで生きてきたのです」と「あとがき」に書いています。

 
 
 

最新記事

すべて表示

「パリ左岸のピアノ工房」(T.E.カーハート 村松潔 訳:2001年:新潮社)

長く本棚に積んであった本(多分15年ぐらい)。ふと手に取って表紙をめくったら、右側にこの本のレヴューが載っていました。「パリに住み着いた『わたし』は、子供の学校の送り迎えごとに、毎日『デフォルジュ・ピアノ店』の前を通りかかる。なんのへんてつもない店。だが、もう一度ピアノに触...

「老いを読む 老いを書く」(酒井順子著 講談社現代新書 2024)

自宅の近所の書店に1週間に1度は足を運びます。何年か前から高齢者向けの本が目に付くようになりました。著者は自ずと知れた樋口恵子、佐藤愛子、五木寛之、和田秀樹・・・といった面々。2年前の統計によると、私が住む葛飾区の高齢化率は24.5%で都内23区のうち第2位(ちなみに1位は...

「トランプ人気の深層」(池上彰 佐藤優 デーブ・スペクター 中林恵美子 前嶋和弘 高畑昭男:宝島新書 2024)

1991~93年の2年間、米国テキサス州立大学で政治科学を勉強して30年以上が経ちます。滞在中の92年にたまたま大統領選があり、テレビや新聞などでその選挙過程を興味深く追っていました(選挙はクリントン・ゴア組が勝利)。帰国してからは少しずつ米国政治への興味・関心が薄れていき...

Comments


bottom of page