「味覚の探求」(森枝卓士著 河出書房 新社 1995年)
- 直樹 冨田
- 2023年8月11日
- 読了時間: 5分
更新日:2023年8月26日
森枝さんの肩書は「ジャーナリスト」となっていますが、私には、食をテーマに世界中を渡り歩いて取材している「食のフォートジャーナリスト」という認識です。仕事で東南アジアに通うようになり東南アジアの食に親しむようになってから、森枝さんの著書を読むようになりました。今、本棚に置いてあってすぐ取り出せる本だけでも「食は東南アジアにあり」「食は韓国にあり」「アジア道楽紀行」「ヨーロッパ民族食図鑑」の4冊があります(段ボール箱にもう数冊入っていると思います)。それに10年以上も前に購入した、この本。タイトルが固そうなので、この本だけ敬遠していたのですが、いったんページを開くと、ぐいぐいと中に惹き込まれて行きました。
本の内容はタイトル通り『「旨い」とは何か』を探求した本です。最後の方でこんなエピソードを紹介しています。黒澤明監督の新作発表会で芸能記者が「で、一言でいえば、監督は映画で何を訴えたかったのですか」。監督の答えは「馬鹿なことを言うんじゃない。一言で言えるようだったら、映画なんか撮りはしないよ」――。著者がこの本を書くにあたり、有名な料理人や食品メーカーの研究員ら出会う人ごとに「あなたの旨いは?」と聞き、また料理に関する名著を読み漁ったりした結果、帰着したのが黒沢監督のこの言葉でした。つまり「旨い」とはかくかくしかじかだと明快にはわかりません、というのが先の質問の答えです。しかし、この本を読めば、おぼろげながらその輪郭ぐらいはわかったような気になります。何よりも様々な角度から「旨い」に迫っていくプロセスが面白い。そして、取材して著者なりに理解した「旨いとは何か」を何とか読者に伝えようとして駆使する表現力(ジャーナリスト魂)はさすがでした。
その一例。この本で著者が一番最初に訪ねたのは、お米の格(等級)を決める財団法人穀物検定協会。お米の格は、まず米粒を食味計という機械で測定し、米に含まれる水分とかタンパク質とか脂肪酸とかの割合(%)を出します。次に、比較するコメを一度に三種類、同じ条件で炊いて、この財団の職員20人がパネラーとなって味見して評価します。その際の評価基準は①外観②香り③粘り④硬さ⑤総合評価の5つ。つまり、お米の「旨さ」そのものを計ることができず、構成要素の含有量を計る→パネラーによる5つの評価の点数→合計点数を出す→高得点だと格が上、つまり「旨い」となります。著者はこのテストをカラオケの点数を出す機械になぞらえます。曲の正しいメロディ・ラインやリズムにどれだけ合致しているかで点数が決まります。合致しなければ、いわゆる「音痴」になります。が、合致していれば果たして上手いと言えるかどうか・・・。さらに美人の福笑いにも例えます。「後藤久美子の目に宮沢えりの口、小泉今日子の顎といった具合に理想的な要素を合わせて」理想像の美人顔を作り上げ、それと比較してて検査対象の偏差値(合計点)を出すわけですが、それで理想の美人ができるかどうか――。もう一つ、著者が「やっぱり」と思った結論はこうでした。このテストはお米だけの味。つまり「ぼくの愛するタイ米をカレーと一緒に食べたりとか、炒飯、お粥にした時の日本米とは異なる旨さといったものは、評価しようがないということである。寿司にしたらこの米がとか、酒にしたらこの米といった種類の旨さは評価しようがないのである。米だけを食べるということは、ほとんどまったくと言っていいほどありえないのに、である」。
目次を見ると、面白そうな見出しが並んでいます。いくつか拾うと
〇本物の旨さはコピーにあり
〇ゲテモノから見えてくる普通の旨さ
〇アメリカは不味いか
〇無農薬だと旨いのか
「味の素」を訪ねて同社の『クックドゥー』の開発プロセスを取材した話もなかなか興味深いものでしたが、ここでは省きます。
実は、私がこれまで森枝さんの著書に惹かれてきた理由は「食」そのものにあるのではなく、食にまつわる文化的背景だったり歴史だったり、さらに食を通じて見える社会や人間関係の有り様などをしっかり書いているからなのです(彼は「どこどこのお店がおいしい」という単なる「グルメ情報」は書きません)。この本からその例を1つ。イスラムの豚肉食のタブーについて「イスラム教徒の居住するところとしては乾燥地帯が多いが、そんな場所では豚の餌となるものが人間の食糧と競合する。豚がおいしい、食べてもいいということになれば、その地域に居住できる人間の数にさえ影響を与えかねない。対して、例えば古くから豚が食されている沖縄やその南のフィリピン、南太平洋の島々など、芋をよく食べていて、(普通だったら人間が食べない)その蔓や葉っぱの部分など豚に食べさせることで人間の食と矛盾することなく飼うことができるというわけだ」「実際にはもっとややこしい側面があるが、基本的にはこういう経験則が社会の規範となり、宗教や慣習を形作っているのである」。
森枝さんが食の背景に見る、こういう文化人類学的側面になぜ目が届くのか?この本を読んでその理由の一端がわかりました。彼が写真家になるきっかけは、高校生の時に20世紀を代表する偉大な写真家、ユージン・スミスに接したことなんですね。熊本出身の森枝さんは星の写真を撮るためにカメラを買ったばかりの天文写真少年でした。そこへ水俣を撮りに来て、そこに居ついたスミス氏に勇気を振り絞って会いに行き、受け入れられたそうです。そしてスミス氏の水俣取材を見続けた・・・。
ちょっと「味覚」から脱線してしまいました。本線にもどると(といっても、もう紙幅はありません)明治維新で肉食のタブーが解禁になったとき、日本国民はそれを簡単に受け入れました。食は文化が規定しているとはいえ、これまで知らなかったものでも「美味しいものは美味しい」ということでしょうが、そこに「味覚の普遍性」があると森枝さんは見ています。かくして味覚の探求は続きます・・・。
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