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「百万本のバラ物語」(加藤登紀子 光文社)

  • 執筆者の写真: 直樹 冨田
    直樹 冨田
  • 2023年4月10日
  • 読了時間: 6分

更新日:2023年4月16日

 東京・新宿駅から徒歩7~8分、靖国通りの角にあるビルの地下1階にロシア料理店「スンガリー」があります。私のお気に入りは(といっても、年に1~2回しか行きませんが)トマトクリーム仕立てのロールキャベツ。平日ランチ2,100円(コロナ前は1,700円ぐらいだったのですが)。味・サービス・雰囲気・場所を考えれば、決して高くない値段だと思います。ジョージア(グルジア)産のワインも素晴らしい。社長は歌手の加藤登紀子さん。旧満州のハルピンにロシア人とともに暮らし、ロシア語が堪能だった両親が始めたお店を加藤さんが引き継ぎました。私はこの本を読むまで、このお店はロシア料理のお店だと思っていたのですが、そうではありませんでした。加藤さんも同様で、本のプロローグに「(ロシアによるウクライナ侵攻後に?)普通にロシア料理と呼んでいたメニューのほとんどが、実はウクライナ料理だとわかり、ハルピンにいたロシア人の多くがウクライナ人だということもわかってきました」と書いています。

 このお店は戦後、満州に住んでいた(その多くはロシア革命から逃れてきた)ロシア人がさらに日本に逃れてきて、行く当てのない彼らの仕事と集まる場所を作るために1957年、レコード会社の部長だったお父さんが副業として新橋でお店を始めたのでした(その時、加藤さんは中学生でした)。スタート時のロシア人スタッフは「いずれも強者揃い」だったそうで、例えば、コックのクセーニャはコサック集団の頭目の娘で、母はサンクト・ペテルブルグの貴族の娘。貴族は革命軍の一番の標的だったので、革命後すぐに満州に逃げてきたのでした。お店が開店した当時、夜になるとどこからともなくロシア関係者がやってきて大宴会になり、また後年、加藤さんもかかわった安保運動の時は運動に参加した学生のたまり場になったそうです。

 さて、加藤さんが歌ったヒット曲の1つが「百万本のバラ」です。歌詞はこうです(1番のみ)。


 小さな家とキャンバス 他に何もない貧しい絵かきが 女優に恋をした

 大好きなあの人に バラの花をあげたい

 ある日街中の バラを買いました

 百万本のバラの花を あなたに あなたに あなたにあげる

 窓から 窓から 見える広場を真っ赤なバラで うめつくして

 

加藤さんがこの本を書こと思った動機は、40年近くこの歌を歌っていながら「この歌の本当の意味をしっているのかと呆然とする瞬間があったからだ」と書いています。この本では、その瞬間からこの歌の秘密を探りつつ、自分の歩んできた道と社会とのかかわりを振り返っています(だから「スンガリー」も登場します)。

 「呆然とする瞬間」とはソ連崩壊時の1990~91年、この歌の作詞者と作曲者に出会ったことです。まず90年、作詞者のアンドレイ・ボズネセンスキーが来日して加藤さんと会います。彼は60年代からソ連体制に批判的な詩人で、ゴルバチョフが登場するとペレストロイカを支持して政界に入り、ゴルバチョフ大統領の片腕と言われました。作曲者のライモンズ・パウルスはバルト三国の1つ、ラトビアの独立運動の中心人物での1人で、同国がソ連崩壊後に独立を果たし、文化大臣になりました。そして91年に来日し、歓迎のレセプションで加藤さんがこの歌を歌った際、「もともと、この歌はラトビア語で書かれた子守歌なのです。いつかラトビア語で歌ってくださいね」と言われました。

 では、もともとのラトビア語の歌詞はどんな内容で、それがどうしてロシア語に変わったのでしょうか。加藤さんは2015年にラトビアに行き、元の歌詞の作詞者レオンス・ブリエディスさんにも会いました。ブリエディスさんは68年のソ連軍のチェコ侵入に抗議し、70年には独立を願って焼身自殺した人に詩を捧げたことで国外追放になった詩人でした。亡命地で結婚し、その地で亡命詩人として生き抜いたそうです。その彼が作った子守歌「マーラが与えた人生」が元の歌詞です。「マーラ」とはキリスト教の女神様の名前だそうで、リフレーンの部分のみの加藤さんの日本語訳をこの本に載せています。

  

  神様 あなたはかけがえのない命を娘たちにくださいました

  でも、どうしてすべての子供たちに幸せを運んでくることを

  お忘れになったのですか?

 

この子守歌を作ったブリエディスさんの意図については「宗教が否定されていたソ連では、このタイトルにプロテストの意味が込められていたのでしょう」という以外、詳しいことを書いていません。そして、この歌がロシアの放送局で流されることになった時、歌詞がロシア語であることが条件だったため、ボズネセンスキーがロシア語で作詞をしました。

 さらに、この歌にまつわるもう2人の人物が登場します。1人は、ボズネセンスキーの歌詞に出てくる「貧しい絵描き」です。その絵描きとは誰か?それはニコ・ピロスマニ(1862~1918年)で「今でこそジョージア(グルジア)を代表する天才画家ですが、生前は貧乏で、酒場の物置で死んだ貧しい画家でした。8歳で孤児となり、お金持ちに引き取られたけれど、その家の娘と恋をして追い出され、どん底の生活の中で絵を描き続け、孤独の生涯を送った画家」。しかし、フランス画壇では知られ、ピカソに大きな影響を与えたそうです。ロシア語の作詞をしたボズネセンスキーは、この画家がフランスの女優マルガリータに一方的な恋をしたことを「百万本のバラ」に描きました。こうして、この歌は子守歌からラブソングに変身しました。2人目はロシア(語)でこの歌を歌った反骨のシンガーソングライター、アーラ・ブガチョワ。旧ソ連政府から何度か表彰された大スターですが、2009年に引退。しかし、ロシアによるウクライナ侵攻が始まるとイスラエルに出国し、夫が「外国の代理人(スパイ)」と認定されると「私も代理人と認定せよ」と宣言し、ウクライナ侵攻に反対を表明したのでした。う~ん、この歌には、筋金入りのすごい役者が揃っていますね!

 この本は、加藤さんがハルピンはもちろん、ロシア、中国、ラトビア、チェルノブイリ、アメリカ、パリなどを訪ねて「百万本のバラ」の歌の歴史的背景を探りつつ、両親の思い出と自分の歌手としての半生をたどった一冊です。「社会は人を分断する暴力に満ちています。だからこそ、歌がある、と私は思っています」と表紙の裏表紙に書かれています。


追伸1 バラの花言葉は(本数によって変わりますが)「愛」や「美」。チェルノブイリ原発事故が起こった1986年4月26日、原発から北西に3キロ離れたところにある村で16組の結婚式が行われていて、そのすべての結婚式で「百万本のバラ」が歌われたそうです。

追伸2 冒頭、「ジョージア(グルジア)産のワインも素晴らしい」と書きました。加藤さんによれば、ジョージア(グルジア)は8000年前からワインを作り、世界一美味しいコニャックの産地だそうです。


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