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執筆者の写真直樹 冨田

「知っているようで知らない漢字」(一海知義著 講談社+α文庫)

更新日:2月13日

 大学4年時に某新聞社の入社試験を受けた際、以下のカタカナを漢字にする問題がまったくできなかったのを覚えています(私の無知をさらけ出すようですが)。それ以来、漢字に対してちょっと苦手意識を持っています。

①ガク然とする ②ア然とする ③リツ然とする ④ボウ然とする ⑤ブ然とする(解答はこの文の一番最後)

今さら、苦手意識を克服する意欲があるわけでもないのですが、中国文学の第一人者だった故一海知義氏(いっかいともよし=神戸大学名誉教授)の本を以前に2~3冊読んだことがあって、高校時代から苦手だった漢文(漢詩)を軽妙にそして深~く解説していて、その膨大な知識に驚いたことがあります。その一海氏が、私たちが日常使っている漢字について書いている文庫本を古本屋でたまたま見つけたので(初版1991年で、ちょっと古い本ですが)読んでみることにしました。ここで紹介するのはほんのさわりです。

 漢字のこんな解説から始まります。「上下」と書いて「ジョウゲ」と読みますが、「上院・下院」と書くと「ジョウイン・カイン」と読みます。「下」の字を「ゲ」と発音するのが呉音(ごおん)で、「カ」と発音するのが漢音です。「上」の字も上人と書いて「ショウニン」と読みます。「ジョウ」が呉音で「ショウ」が漢音です。どちらも意味は同じで発音が違うだけです。例をもう1つ。「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十」を普通「イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、ナナ、ハチ、クゥ、ジュウ」と読みます。これらのうち、三、四、五は呉音も漢音も同じですが、それ以外は全部呉音だそうです。では漢音で読むとどうなるかというと「イ(一生)、ジ(二郎)、リク(六朝)、シツ(七宝)、ハツ(八方)、キュウ(九州)、シュウ」となります。

 漢(紀元前2世紀~紀元後2世紀)と呉(3世紀)は中国の王朝の名前ですが、漢音・呉音という場合、王朝ではなく中国の地名を指しているそうです。漢字の日本への伝来ということでいうと、1、2世紀頃に日本に伝来しはじめ(有名な後漢書の「漢委奴国王=かんのわのなのこくおう」のハンコは西暦57年に日本からの使者に与えたハンコではないかと言われています)、5~6世紀頃に中国南部の呉の発音の漢字が日本に伝えられました。そして8世紀頃に中国北部の漢中地方(当時の唐の都の長安など)の発音が日本に伝えられたそうです(後者は遣隋使や遣唐使の頃で、この頃には日本人はちゃんとした漢文を書けるようになったそうです)。その後、呉音と漢音が入り混じってしまったので、793年に当時の政府は漢音に統一するお触れを出したのですが、なかなかうまくいかなかったようです。そして仏教関係の書物(お経など)は呉音、学問(儒学)関係の漢字は漢音で読むという習慣がついてしまいました。例えば、仏教用語で殺生(せっしょう)、修行(しゅぎょう)、極楽(ごくらく)はいずれも呉音だそうです。江戸時代に儒教が盛んになり、それまで残っていた呉音読みのかなりの部分が漢音読みに変わったそうです。例えば、食堂(ジキ堂→ショク堂)、勢力(勢リキ→勢リョク)、飛行(飛ギョウ→飛コウ)等などです。今の時代に通じる読みはこの時代に固まったのかもしれません。

 さて、漢字にはふつう音と訓の2つの読み方があります。例えば、「犬」なら訓は「いぬ」、音は「ケン」です。ひらがなは意味を、カタカナはその字の発音を表しています。しかし、音しかない漢字もあります。例えば「菊」はキク、「蘭」はランという音だけです。菊や蘭はもともと日本になかった植物で、これらの漢字が日本に入ってきたときに中国の呼び名をそのまま拝借したのではないか、と一海氏は推測しています。逆に訓だけあって音がない感じもあります。例えば、峠(とうげ)、凩(こがらし)、躾(しつけ)、榊(さかき)、俤(おもかげ)。これらは日本製の漢字で「国字」または「和字」といって140字ぐらいあり、中国人は読めないそうです。

 この本は346ページの文庫本ですが、紹介されている漢字の例は他にもたくさんあります。毎度のことですが、このブログの紙幅ではとても足りません。それで最後にもう1つだけ紹介します。それは「熟字訓」、つまり「あて字」で、紫陽花(あじさい)、五月雨(さみだれ)、五月蠅(うるさい)などがその代表例です。また、昔の候文では音だけをあてているスゴイ当て字がむやみやたらに出てきました。例えば「厚釜敷存候」。これは「あつかましくぞんじそうろう」と読みます。一海氏は「『厚』はまだいいのですが、『釜』『敷』に至っては意味の上では全く無関係な漢字で、まことにあつかましい当て字だといわねばなりません」と述べています(上に傍線を引いた「やたら」も「矢鱈」というすごい当て字があります)。続いて「『海』という読み方をいくつ知っていますか」という小見出しを掲げて、この字を使った当て字を紹介しています。海苔(のり)、海女(あま)、海老(えび)くらいまでなら読めますが、海鼠(なまこ)、海月(くらげ)、海豹(あざらし)、海象(せいうち)となると少し怪しくなります。

 どうして当て字が生まれたのか?一海氏によれば「日本から漢字が伝えられた当初、日本人はこれを日本語を表記する手段にしようとは考えなかった。あくまでも漢文(中国文)を書く手段と考えていたのです。ところが、漢字を使って(漢文で)日本のことを書こうとしたとき、日本の人名や地名を漢字でどう書きあらわすか、という問題にぶつかります。そこで考え出されたのが、表意文字である漢字を表音文字として使う」という方法でした。しかしそのことはすでに中国人が先に行なっていて、その代表例が「卑弥呼」だと指摘しています。日本人もこの方法に徐々に習熟していったのです。はるか時代が下って江戸時代、外来語に漢字を当てて書くということが盛んにおこなわれました。よく知られた例では、合羽(かっぱ)、歌留多(かるた)、襦袢(じゅばん)、煙草(たばこ)、天鵞絨(びろーど)などです。これらはいずれも元はポルトガル語です(「天婦羅=てんぷら」も元ポルトガル語説が有力です)。

 戦後に「当用漢字」が決定され、難しい漢字を使わなくなりました。その際、「当て字はかな書きにする」と決められました。漢字の苦手な私にはホッとする決定です。が、「この当て字、おもしろいなあ」と思う気持ちもあり、ちょっと残念な気もします。

〈冒頭の漢字の解答〉 ①愕然 ②唖然 ③慄然 ④呆然 ⑤憮然

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