
過日、箱根にあるポーラ美術館で開催中の「ピカソ 青の時代を超えて」を観に箱根まで足を伸ばしました。箱根湯本駅から箱根登山鉄道に乗り換えて終点の強羅駅で降り、さらにバスで10分ほど坂を上ったところにあります。バスを降りた瞬間の空気の清々しかったこと!
さて、上野の西洋美術館で開催中のピカソ展よりもポーラ美術館を先に訪れたのは、ピカソの中で「青の時代」の作品が一番好きだからです。「青の時代を超えて」と銘打ったからにはたくさんの「青の時代」の作品があるはず…と思ったのは私の早合点で、数えたところわずか7点。がっかりでしたが、ただ以前から観たいと思っていた「海辺の母子像」(写真)を観ることができたのは収穫でした(青の時代の「老いたギター弾き」もいつかぜひ観たいと思います)。
ピカソ(1891~1973)は91歳の生涯で絵画や版画、彫刻等も含めて13万点以上の作品を制作しました(若い頃はデッサンを1日3枚描いたそうです。有名な『ゲルニカ』は1か月で仕上げたとか)。6歳の頃には「ラファエロのように描いていた」と豪語しています。早熟の天才だったんですね。中学校の美術の先生だった父から絵画(特にデッサン)の指導を受けていたピカソは、画家を目指してバルセロナに出、さらに19歳(1900年)の頃にパリに行きますが、親友が失恋から拳銃自殺をして以後、重い鬱にかかり、「青の時代」が始まりました。そして21~24歳の約3年間、貧困にあえぎ、悲しみを抱く人を主題に青い絵を描き続けました(ピカソは、盛んにデッサンを描いていたバルセロナの時代にすでに貧困にあえぐ人をテーマとした絵を描いています)。ピカソは前途有望の若い画家でしたが、「青の時代」の作品は世間にあまり受け入れられず、ピカソ自身の生活も苦しかったそうです(それでも3年間描き続けました。というより、その悲しみを乗り切るために3年間が必要だったということでしょうか)。
たくさんの作品を描いたピカソは表現様式を次々に変えました。青の時代→バラ色の時代→キュビズムの時代→新古典主義の時代。ポーラ美術館のHPを見ると、今回のピカソ展は「制作のプロセスに焦点を当て、絵画芸術に挑んだ『描く』ピカソの作品を初期から捉えなおそうとする」ことが目的であると書かれています。つまり、ピカソの絵画芸術の原点を青の時代から紐解くことが目的、と私なりに理解して作品を観て回ったのですが、その関係がどうもよく理解できませんでした。今回、改めて感じたのは、ピカソは人間を描いたんだなあ、という単純な事実でした。牛や静物なども描いていますが、その多くは人間、特に女性でした。確立した名声が傷つくことを恐れず、次々と表現様式を変えて新しい様式を創造していった理由は尽きない人間探求ではないでしょうか。それが「青の時
代」とどのように関係するのかは??です。「青の時代」に関する私の宿題となりました。
※「青の時代」の作品7点のうち、写真撮影が許可されていたのは「海辺の母子像」だけ
でした。
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