top of page
執筆者の写真直樹 冨田

ラオスに行ってきました

 NGO職員として働いていた頃の縁で11月後半の2日間、ラオス南部のパクトン村に行ってきました。群馬県板倉町の有志グループが2000年に小学校の校舎(建設)を寄付したのをきっけかに隔年で同村を訪問し続け、私も2005年から毎回随行していました。コロナのため今回は6年ぶり、同グループとしては12回目の訪問になります。私が参加した2005年、同村に電気が通り、村に一軒だけ電気が来ていました(たしか村長の家でした)。村人が大勢集まってテレビを見ていると帽子が回ってきて、村人がお金を入れていました。「視聴料金を取るとは、なんと商売意欲旺盛な!」と思ったら、皆で電気代をワリカンにしていたのでした。訪問のたびに電気の明かりが灯る家が少しずつ増え、それとともにテレビだけではなく冷蔵庫も見られるようになりました。しかし、水は日に数回、子どもたちが近くの川に汲みにいき(小さな子どもが15キロぐらいの大きなバケツをかついでいました)、トイレは水を水溜からプラスティックの水桶で水をくんで流していました。発展途上国の村の多くで見られるように、電気製品と社会インフラのギャップが大きいのが印象的でした。今回、パクトン村に水道ができて、水汲み労働はなくなっていましたが、その分、水道代を払う現金収入が必要になっていると思われます。しかしバンコクやリゾート地に出稼ぎに行けば仕事があるタイと違い、ラオスには現金収入の機会は少ないのです。

 ラオスの主食はお米(農村部ではもち米)。季節は春夏秋冬ではなく雨季(5月~10月)と乾季(11月~4月)ですが、雨季の前にお米の苗を植えて雨季が終わると収穫します。NGO職員時代に私が訪ねた30~40の村では普段、肉や魚はめったに食べることができず、森で取ってきた野菜や木の実などをナンプラーなどの調味料で味付けするか、それらをスープで煮たりして、それを促進剤にひたすらお米を食べます(お米だけでは味がしないので)。川で魚を捕まえても自分たちで食べたりせず、市場に持って行って売り、わずかながら現金を得る方が多いのではないでしょうか。

 今回の旅行で、奨学金を支援している7名の参加者が直接自分の奨学生(中学生)に面談しましたが、そのうち3~4名はドロップアウトして別の生徒に変わっていました。中学校卒業はまだまだ大きなハードルのようです。ラオスでは小学校5年までが義務教育で小学校を卒業できる子は増えましたが、中学卒業となると難しいようです。1つには中学生となると体も大きくなり、労働力として家族を支える必要があるからです。また中学校の数が少なく、朝夕働く子は通い切れないという面もあります。道路の舗装もできておらず、雨季の土砂降りの雨の日は地面が湖のようになったり坂道が滝のようになったりして通学できなかったり、逆に家に帰れず、学校に泊まることもあるようでした。ぼんやりとしか覚えていませんが、カンボジアの小中高の学校数の比率は160対30対1ぐらいだったように記憶しています。ラオスもそのぐらいかもしれません(今、ググってみましたが、日本はだいたい4対2対1、つまり小学校4校に高校1校の割合です)。

 ラオスは15世紀ぐらいに国ができましたが、国が分裂したり隣国に攻め入られたりして国としての地盤が固まらず、20世紀初頭にはフランスの植民地になり、さらにベトナム戦争では本州ほどの面積の国に第2次世界大戦中、ヨーロッパで落とされた爆弾の総量と同じ量の爆弾が米軍によって落とされ、さらに東西冷戦では東側に組み込まれて経済が停滞、東西冷戦後は重債務貧困国になりました。加えて「一帯一路政策」を進める中国から多大な借金をして高速鉄道を建設しましたが、その返済は容易ではないようです(以前、その模様が「NHKスペシャル」で報じられました)。

 今回の旅行では村人と大いに楽しい交流ができました。また、支援していた元奨学生の女性が隣村の小学校の先生になっていて、昔、面談の時に支援者と二人で写っている写真を今回も参加したその支援者の方に見せながら「奨学金がなければ今の私はありせん」と大きな涙をこぼしながらお礼を述べていました。教育支援の成果です。短い滞在期間でしたが、お別れ式の時に手を振る子どもたちに「彼ら一人ひとりに明るい未来が開かれますように。一生懸命勉強してね。ガンバレ!」と心の中で声援を送りながら帰途につきました。


閲覧数:47回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page