長崎に行きました
- 直樹 冨田
- 2022年6月5日
- 読了時間: 5分
3泊4日で友人夫妻と長崎に行ってきました。

長崎は南蛮文化(バテレン)、オランダ貿易によるヨーロッパ文物の流入、中国貿易による中国人と中国文化の流入、そして長崎に投下された原爆、と見るべきところがたくさんあり、日本の歴史を振り返る絶好の機会(3泊4日)でした。
第1日目。長崎市の東にそびえる風頭(かざがしら)山の西麓一帯にある寺町に10以上の寺が並んでいます。その中で最も大きい山門を持つ興福寺と崇福寺(そうふくじ)の2つを訪れました。どちらも長崎の中国人がお参りしたお寺で、船神の馬祖(まそ)を祭っているようです。その後、カステラで有名な福砂屋(創業1624年)に寄り、遊郭だった丸山町と唐人屋敷跡を歩きました。丸山町には史跡料亭花月(柱に坂本龍馬がつけた刀の傷跡があるそうです)と長崎検番が残っている程度。唐人屋敷も入り口に大きな門といつくかのお堂が残っている程度で、どちらもちょっとがっかり。唐人(中国人)は1689年にお触れが出るまで長崎の町に分散して住んでいて、当時の長崎の人口約6万人のうち1万人を占めたそうです。長崎は日本唯一の対外貿易の町でしたが、取引される商品で長崎産のものは何もなく、また、貿易にかかわる商人も京大阪出身の大商人で、貿易の上りは長崎の住民の頭の上を通り過ぎるばかり(貿易の収益の一部が住民に配分されましたが)。それで、できるだけ長崎にお金を落とさせるために丸山遊郭ができたそうです。そのため、丸山遊郭の遊女は地元長崎出身者が多く、彼女たちの収入とオランダ人や唐人、日本の商人からもらうプレゼントを換金して長崎にある実家に送り、それが長崎の町を支えたそうです。プレゼントはとても高価だった砂糖が喜ばれ、それが長崎の町に出回り、カステラをはじめとする洋菓子が生まれたようです。生活を支えた遊女は引退して(長崎の)実家に戻っても元遊女として軽蔑されることはなく堅気の男性と結婚できた――それが他の遊郭と違う点だと赤瀬浩が「長崎丸山遊女」(講談社現代新書)で指摘しています。
第2日目。長崎駅から出島岸壁までぶらぶら歩いた後、出島オランダ商館跡に建設された出島を見物しました(2000年にオープン)。江戸時代のオランダ商館長(カピタン)の事務室や寝室、オランダ人商人が使用した食堂、いくつかの蔵などの建物が復元されていました。その後、長崎県庁(←取り壊されていて更地になっていました)から長崎市庁舎までの市役所通りを歩きました。そもそも長崎は、平戸から撤退して貿易港を探していたポルトガルが1571年に今の長崎の地に港を移したのが始まりで、それまでは小さな村で、長崎の町を作るにあたり地方から人を呼び集めて作った6つの町がこの市役所通り沿いにあったそうです。県庁所在が当時の岬の突端にあたり(長崎という名前は長い岬→なんがい崎→長崎になったそうです)、かつてはそこにイエズス会の教会が立っていました。この通りを歩いて市庁舎を過ぎて左折すると、石垣を土台とした巨大な建物が見えます。それが長崎歴史文化博物館で、かつて権勢を誇った長崎奉行(立山役所)があった場所です。同博物館は長崎の歴史資料はもちろん美術工芸品の展示もとても充実していました。そこからしばらく歩いて、長崎の有名なお祭り「長崎くんち」が行われる諏訪神社を訪問。途方もなく長い階段を上り切り、友人夫妻ともども頂上で息が途絶えました(笑)。
第3日目。オランダ坂を上り、洋館が集まるところで一休みしてから孔子廟を訪問。昼食後に大浦天主堂に向かいました。浦上天主堂のすぐ手前にコルベ神父が活動していた洋館「聖コルベ館」がありました。これは予定にはなく、うれしい発見でした。遠藤周作は「女の一生(第2部・サチ子の場合)」でコルベ神父を描くにあたり何度かここを訪れたそうです。4年前にアウシュビッツを訪問した際に見た、コルベ神父が閉じ込められた部屋を思い出しました(部屋の真ん中にロウソクが灯っていました)。そこからグラバー亭に行き、夕方、ケーブルで稲佐山に上って長崎の夜景を見ました。
第4日目はまず西坂公園で日本26聖人記念碑と同記念館を訪問(写真上)。記念碑は彫刻家・舟越保武氏の代表作で、一人ひとりの習作を丹念に描いてから碑を制作したそうで、その習作の数点を記念館で見ることができます。この記念館には秀吉の禁教令の写しやザビエル自筆の書簡、踏み絵帳など貴重な資料が展示されています。公園には26聖人の処刑を本国に伝えたルイス・フロイスの碑も立っていました。続いて路面電車に乗って長崎原爆資料館に行き、平和公園で爆心地と平和祈念像を訪れました。原爆資料館では、実物大(?)の倒れかかった給水タンクなど原爆による被害の実相が再現されていたり、長崎の町の模型で爆風や放射能の広がり等を分かりやすく表示されていたり、充実した展示内容でした。「長崎を被ばくされた最後の都市に」という同館のコンセプトから、長崎に原爆が落とされるまでの歴史及びその後の世界の歴史がわかるようにニュース写真などが豊富に展示されていて、コンセプト実現に取り組む熱意と工夫を感じました。
タクシーの運転手さんは笑いながら「長崎に多いのは坂、墓、バカの3ばか」と言っていましたが、その坂の多い町を2日目は12,000歩、3日目20,000歩、4日目13,000歩も歩きました。勉強不足で「長崎の歴史」と「日本の今」がなかなか二重写しにならないのですが、改めて日本の近現代史への興味を掻き立てられました。
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