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執筆者の写真直樹 冨田

「井上ひさしから、娘へ」(井上ひさし 井上綾著 文藝春秋:2017)

更新日:7月16日

 ここ20年ぐらいの間に限ってよく読んだけれど、このブログで紹介していない著作家はまだかなりいます。例えば、女性では須賀敦子、米原万里、内田洋子、藤本和子。男性では堀田喜衛、池澤夏樹、加藤周一、立花隆。ここに紹介する井上ひさしもその一人。彼は本を書く際、「むずかしいことを簡単に、簡単なことをより深く、深いと同時におもしろく、かつまじめに」をモットーにしていたそうですが、その彼の小説、戯曲、エッセイをよく読みました。こまつ座にもよく足を運んで芝居を楽しみました。

 さて、この往復書簡は2004年から2009年まで、井上ファミリーの実家があった千葉県市川市のタウン誌に掲載されたもので、井上ひさしが2010年に亡くなる5か月前まで続きました。本文にも書いてありますが(詳しく書かれているわけではないのですが)、次女(井上綾)が夫と娘から離れて(離婚して?)市川で一人きりで暮らすようになり、風の強い夜、「ただただ怖かったのです」「肌が粟立つような気持に、息を吸うのも困難になりながら、ただ縮こまって」「明日に何の希望も期待もないような」状態だった次女を、父が手紙という形で自分の小さかった頃の思い出を語りながら励ますという目的で始まった往復書簡です。

 井上ひさしは蔵書のすべてを出身地山形県の「遅筆堂文庫」に寄付しました。その数約20万冊。何かを調べるのに本が必要になると神田の古本屋に電話する。すると神保町内の、お互いに連絡を取り合った古本屋から関連する書物がトラックで運びこまれ、その中から必要な本を選ぶのではなく、全部購入したというのですから家じゅう本だらけ(神田の古本屋で購入する本の量では司馬遼太郎と双璧だったそうです)。本の重みで床が抜けたのも頷けます(本代もばかにならない額)。しかも購入した本を積んでおくだけではなくご飯を食べている時も寝る時も本を読み、モーレツに勉強したそうです。私が興味深かったのは、このような井上ひさしを作った若かりし頃の家庭環境や人間関係でした。

 まず第1便で母のことが書かれています。井上ひさしは1934年、山形県の米沢に近い宿場町に生まれました。父は町で一番大きな薬屋の息子で、東京薬専(現在の東京薬科大学)を卒業して稼業を継ぎますが、インターン時代に働いた東京の病院の病院長の娘と結婚して、井上ひさしが生まれました。稼業を継ながらも小説家になりたくて、寸暇を惜しんで作品を書いてコンクールに送っていたそうですが、もともと体が弱く、井上ひさしが4歳の時に脊髄カリエスで亡くなりました。舅や姑と仲が悪かった母(=病院長の娘)は自分で薬屋をやろうと決心して猛勉強し、山形県で初めて女性として薬種業の免許を取得。薬剤メーカーなどに勤める、亡くなった夫の友人らが応援して薬屋は繁盛したそうです。夫が亡くなった時(日中戦争がはじまった年)、3人の子ども(と舅や姑)をかかえて生きていくのは大変だから実家(東京の病院)に帰ってきなさいと両親から勧められましたが、「なにか仕事をしないでは、食事をもらうわけにはいかない」と言って断ったそうです。この「なにか仕事をしないでは、食事をもらうわけにはいかない」は母の口癖だったそうで、徹夜で薬のことを勉強しながら、この言葉を呟いていたそうです。

 第17便のタイトルは「弟の手」。毎夏、町にサーカスがやってくると、夏休みの午前中、田んぼの草刈りを終えた井上少年は午後からサーカスのテントの設営にみとれていました。いよいよ1週間の興行がはじまると、母は2回分のチケットのお金をくれました。もっと行きたい井上少年は「もっとお金をちょうだい」と粘ると、母は「そんなにサーカスが好きなら、いっそサーカスに入っておしまい」と言います。それで毎夏、家出をする決心をすることになります。その夏、同じやりとりで夜中、風呂敷に荷物をまとめて家を出ると、最初からじっと様子を見ていた5歳の弟がうしろから両手で腰のあたりを抱えて「僕の分を上げるから、兄さんは4回見ればよい。だから家に帰ろう」と言ったので、その時は家に帰ったそうです(前年の夏は兄に引き留められたそうです)。その弟の手の意味を理解したのは、高校1年時に洗礼を受けた際に神父さんがお祝いにこんな言葉をかけられたとき。

「私たちの手がなんのためにあるのか、それをよく知ってください。いいですか、モノを持つため、モノを取るため、モノを拾うために、この手があるわけではありませんからね。わたしたちの手は、だれか大切な人の心を抱き締めるためにあるのです。体を抱くためではありません。いいですか、心を抱き締めるためにあるのですよ」

 第19便は「必ず失敗する秘訣6か条」。この便は書き出しにまず惹かれます。「わたしが子どもだった頃、大人の決まり文句は『きみたちはみんな、二十歳までには死ぬんだよ』という、今考えれば奇妙な、しかし恐ろしいコトバでした。たしかに、昭和二十年(1945年)の日本男子の平均寿命は二十三・七歳でしたから、大人たちは間違ったことを言っていなかったわけですが、それにしても平均寿命が二十三・七歳とは!戦地で兵隊さんが死ぬ、内地では空襲で市民が死ぬ、赤ちゃんが栄養失調と薬不足で死ぬ、大人にしても食べ物がなくて死ぬ・・・そんなバカな、ひどい、ムチャクチャな時代があったのです。そしてそんな時代を『うん、あのとき日本は正しかった』と叫ぶ人たちが、このところふえてきました。人間が二十歳ちょっとしか生きられない時代がどうして正しいのでしょう。それだけ人間の命をなんとも思わない人たちがふえてきているんですね」。こうして長く生きてきた70歳の父が年間200回の舞台を行う劇団の代表を長く務めてきた経験から、以下の「必ず失敗する秘訣6か条」を娘に伝授します。

第1条「どうにかなると考えていること」。どうにかなるなんてことはこの世に1つもなくて、自分でどうにかしなければ、この世はどうにもならない。

第2条「これまでのやり方が一番良いと信じていること」。自分の生き方を毎日のように自己点検し工夫しないと必ず良くないことが起こります。

第3条「高い給料を出せないと言って人を安く使うこと」。これではよい人を集まらない。良く働く人にはだきるだけよい給料を出す。そうしないと劇団は長く維持できません。

第4条「支払いは延ばすのが得だと思い、なるべく支払わぬようにすること」。これではいつまでも信用されません。

第5条「お客はわがままだと考えること」。努力しない人は、不都合なことをすべて相手のせいにしてしまします。何よりも先に、自分の方がなにか手落ちがあったのではないかと自己点検を怠ってはいけないのです。

第6条「忙しい忙しいといって、本を読まないこと」。こういう人に限ってテレビは日に3時間も観ている。どんと構えてしっかり良い書物を読む。そのことで、コトバの力と思考力が養われますし、この2つこそ人生を切り拓くための最良の武器なのです。

 第26便は往年の名遊撃手、豊田泰光さんからうかがった話。水戸商業の主将だった豊田選手は甲子園の開会式の選手宣誓に選ばれました。宣誓文は「われわれ選手一同はスポーツマンシップに則り、正々堂々と戦うことを誓います」という短くて簡単な内容。ところが校長先生は「豊田君、これから海岸に行って、この宣誓文を百回唱えてきなさい」と命令されたそうです。こんな短い文、百回も練習しなくても言えるのにと思ったけれど、校長先生に言われて百回唱えたそうです。翌日の本番、満員のスタンドで緊張したのか、場内行進しているうちに頭が真っ白になって意識が途絶えてしまいました。気が付いた時は、宣誓を終えて自分の列に戻っていました。プラカードを持っていた女性に尋ねると「とても立派な宣誓でした」。その時、豊田選手は、やはり練習というのはスゴイものだ。それから練習で手を抜くことをしなくなった・・・。父は「人生はこの練習の繰り返し。これからも生きることの練習を続けてください」と書いて26便の筆を置きます。

 次女の手紙を1通も紹介しなかったし、父の手紙で書き抜いて紹介したい箇所はほかにも随所にありますが、長くなるのでこのくらいにします。

 最後に、この往復書簡の目的はどうなったでしょうか?次女は「この『やりとり』があったから、当時の私は心の居場所を持つことができていたのかもしれません。ぐるぐると止められない考えをいったん止めて、『生活』、あるいは『暮らし』にとどまっていられたのです」と「あとがきにかえて」で書いています。目論見に成功した父は、天国でニタっと笑って煙草でも吸って本を読んでいるのではないでしょうか。

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