「バッハ」(加藤浩子 平凡社新書:2018)
- 直樹 冨田
- 10月27日
- 読了時間: 7分
更新日:10月28日
昨年11月、バッハが生まれ育ち、音楽家として職を得た教会や王宮などを中心に10の街を友人夫妻と訪ね歩きました(ゲーテ街道と重なります)。訪れた街は①アイゼナッハ
→②アルンシュタット→

③オールドルフ→④ヴァイマール→⑤ライプチッヒ→⑥ケーテン→⑦ドレスデン→⑧ベルリン→⑨ハンブルク→⑩リューベックです。なぜこれらの街を巡り歩いたかというと、もちろんバッハが好きだからですが、ここで紹介する加藤浩子さんの本『バッハ』の前編で、2000年に出版された『バッハへの旅』(東京書籍)に触発されたことも大きな要因の1つです。『バッハへの旅』はバッハゆかりの街の写真(撮影は若月伸一氏)が豊富に掲載されていて、その写真を眺めているだけで現地を訪れた気持ちにさせてくれます(文章も簡潔で素晴らしい)。例えば、ヴァイマールの章では冒頭の2ページ見開きで全面に市庁舎前の広場のカラー写真が掲載されています(写真の上に文字が印刷されています)。写真の真ん中に白とモスグリーンのしゃれた建物が建っていて、画家クラナッハが亡くなる1553年まで住んでいた家だそうです。歴史的なたたずまい。その建物の前にある赤いパラソルの下で観光客が何かを飲んでいます。次ぺージには国民劇場の前に立つゲートとシラーの像の写真。ライプチッヒの章では、バッハが亡くなる1750年までの27年間、音楽カントール(音楽監督)を務めた聖トーマス教会の建物の全容と天井が高い荘厳な雰囲気の内部の写真。そして石畳の街並み、シックな雰囲気のレストランとカフェ、およびその料理とケーキ。すべての章を通じて当時、使われた楽器や自筆譜の楽譜、当時の雰囲気を伝える絵や彫刻といったふうに魅力的な写真が次々と目の前に現れ、10年ぐらい前にこの本を読んだときから、すっかり心を奪われていました。
『バッハへの旅』の出版をきっかけに旅行会社から提案があり、加藤さんは「バッハへの旅」という同名のツアーを開始(通算30回)。そしてバッハの街を訪ね歩くうちに痛切に感じるようになったことがあり、それで続編『バッハ』を著したそうです。「痛切に感じるようになったこと」とは何かというと、バッハと土地・時代の結びつきです。以下、本書からその「結びつき」の一端を簡潔にまとめてみます。
バッハが暮らした街は旧東独地域のザクセンとチューリンゲン地方内に限定されました。これらの地域の街はルター派のお膝元で、例えば、ルターが聖書をドイツ語に翻訳したヴァルトブルグ城はアイゼナッハの郊外にあり、ルターが学生時代を過ごしたエアフルトは、バッハ一族の重要な本拠地の1つです。バッハが亡くなるまで27年間も暮らしたライプチッヒは「ルター派の牙城」と呼ばれる街でした。ルターが礼拝で音楽を重視したことから、ルター派の伝播とともにこれらの地方が後年「音楽の国」と呼ばれるほど音楽が盛んになり、そこで音楽家バッハ一族の祖先が教会で合唱を指導したりオルガンを弾いたり、また宮廷の専属音楽家として活躍したりしました。そして「音楽家といえばバッハ」と言われるほど音楽家の仕事を独占し、一族が定期的に集まって就職先などの情報を交換しました。バッハがルター派の宗教の強い地方に音楽一族として住んでいたからこそ大バッハが生まれたいうわけです。例えば、同じ1685年生まれのヘンデルは同じザクセン地方にあるハレの生まれですが、お父さんはお医者さんで、音楽一家のしがらみから自由だったのでイタリアを経てロンドンに行き、そこでオペラやオラトリオなどを書いて活躍しました。
さて、続編の『バッハ』は第1章でバッハとルターの関係を概観し、第2章では『バッハへの旅』同様、バッハが育った街とその歴史を交えながらバッハの生涯の歩みを紹介しています(ただ残念ながら写真が少なく、しかもモノクロ)。第3章は「オルガンと世俗カンタータで辿るバッハの足跡」、第4章「家庭人バッハ」、第5章「バッハ・ディスクガイド」となっています。この本の中心である第2章は以下のような構成です。
① ヴェヒマルーー「パン屋」から生まれたバッハ一族のふるさと
② アイゼナッハーー生まれた故郷はドイツ文化の一大中心地
③ オールドルフーーいちばん小さな「バッハの街」は「大バッハ」誕生のゆりかご
④ リューネブルグーー北ドイツを代表する観光地はバッハの第2の故郷
⑤ アルンシュタットーーバッハ青春の街は一族の本拠地
⑥ ミュールハウゼンーー帝国自由都市での「自立」と充実した日々
⑦ ヴィマールーードイツ屈指の文化都市はバッハの飛翔の場
⑧ ケーテンーー小さな君主国を包んだ「楽興の時」
⑨ ライプチッヒーー音楽と商業で賑わった最大のバッハの街
本の内容をほんの少しだけ内容を紹介すると、バッハが生まれた②アイゼナッハでは、ルターが200年前に通った聖ゲオルグ教会付属のラテン語小学校にバッハも通いました(つまりバッハはルターの小学校の同窓生で後輩)。父は町楽師で宮廷楽師も務めており、父のいとこは聖ゲオルグ教会のオルガニスト兼宮廷のチェンバリストでした(ちなみにこの宮廷楽団には「カノン」で有名なパッヘルベルが在籍し、バッハ一家と親しくしていました)。バッハは学校で聖書を習い、讃美歌を歌い、聖歌隊に入って週2回は街で歌って喜捨を受けました。成績は優秀でしたが、父の仕事の手伝いのため欠席も多かったそうです。町楽師一家の息子の宿命でした。バッハは9歳で両親を失い、アイゼナッハを離れて兄の住むオールドルフにひきとられました。
もう1つ、⑨ライプチッヒについても本の記述を少し拾ってみます。ライプチッヒは当時、上記①~⑩の街の中で群を抜く大都会でした。それは同市が東西南北の交易路の交わるところで、ドイツで最大の見本市を年に3回開催していたから、ロシアやトルコ、果てはアメリカからの商品で賑わっていたそうです。加えて近郊の山から銀や鉄鉱石が取れたので経済も繫栄し、当時としては豪奢な建物が建築されました(教会も例外ではありませんでした)。さらにハイデルベルグ大学に次いで二番目に古いライプチッヒ大学が設立され、ゲーテやニーチェ、テレマンが通い、ライプニッツが教鞭に立ちました。音楽の面でも後年、ワーグナーがこの街で生まれ、シューマンが作曲活動を開始し、メンデルスゾーンが現地ゲヴァントハウス・オーケストラの指揮者となって活躍しました。
さてバッハが雇われたのは、同市を「見本市の街」としてより魅力的にするために音楽の力を必要としていたからです。当時、音楽は教会の看板のようになっていて、聖トーマス教会と聖ニコライ教会の桟敷席はオペラハウス同様、裕福な市民がお金を出して借りる場所で、市民向けの公開コンサートが頻繁に行われていました。加えて、「ルター派の牙城」といわれたライプチッヒの教会カントールは年間60ぐらいの教会音楽(カンタータなど)を作曲し、手分けして譜面を写譜し、オーケストラ(教会付属学校の生徒たちが主なメンバー)を訓練し、毎週末に演奏しなければなりません。それまで大学出しか雇わなかったトーマス教会のカントールに大学を出ていないバッハを採用したのは、バッハが音楽家として優れた実績を持ち、上記の需要を満たすことができると市の参事会が判断したからでした。
最後に、バッハの「マタイ受難曲」について少し触れます。かつてクラシック音楽仲間の間でこんな問いがしばしば交わされたそうです。「もし孤島に流されて一生そこで暮らさなければならないとして、1曲だけ好きな曲を持って行ってよいとしたら、どんな曲をもっていくか?」――私は迷わずバッハ作曲の『マタイ受難曲』を選びます。イエスがユダの裏切りで逮捕されてからペテロの裏切り・否認を経て十字架に磔になるまでの3日間を描いた、演奏時間約3時間半の大曲です。この曲、日本では季節を問わず演奏されますが、著者の加藤さんによれば、ドイツでは「教会暦」に従って聖金曜日のある受難週にドイツの大小さまざまな街で一斉に上演されるそうで、むやみやたら演奏されるものではないとのこと。そして受難曲は信徒が日ごろ教会で歌っている讃美歌がベースになっているので、合唱団のメンバーは(聴く側も)耳になじみがあり、信仰からくる確信にみちた気持ちで歌を歌い、聴くそうです。なるほどね~。私のように少し聖書に興味があるレベルの人間には、バッハの音楽を真に理解するのはむずかしいのですね~。バッハの旅で2週間ドイツを巡り、バッハゆかりのたくさんの教会を訪問して、改めてバッハの音楽は宗教に根差していると感じました。この本はその歴史的背景を教えてくれました。
コメント