「ナミイ! 八重山のおばあの歌物語」(姜信子著 岩波書店:2006年)
- 直樹 冨田
- 2月20日
- 読了時間: 7分
今年、初めて沖縄に行くかもしれません。日本の外にはずいぶんと出て行きましたが、沖縄には行ったことはありません。本土が沖縄に被せてきた歴史を思うと、気が引けて足が沖縄の方に向かなかったのです。1609年に薩摩藩が3,000人の兵を率いて琉球に侵攻して屈辱的な講和を結ばされたのが、その歴史の始まり。1879年、明治政府が「琉球処分」という名の併合で琉球王国を壊滅させました。沖縄に10年住んだ作家の池澤夏樹氏はエッセイ『むくどり通信』(1995年)で沖縄の歴史を「日本にとって沖縄とは何か?何だったのか?」という視点からこう書いています。「征服して収奪できる植民地。大日本精神を教え込むべき未開の地。戦争になったら敗戦を遅らせるために差し出される人身御供。戦後はアメリカの手に引き渡した捨て子。復帰に際しては円の力で土地を買い占めできる草刈り場。今は、日本国にあるアメリカの基地の75%を引き受けてくれる便利な島」。
さて、こうした歴史を持つ沖縄の地を本土側の当事者のひとりとして一度歩いてみようと思うようになりました(沖縄のために何ができるわけでもないのですが)。それで例によって沖縄に関係する本を買い溜め、これまでに10数冊読んでみました。このブログで紹介するのは、姜信子(きょうのぶこ)さんが書いた『ナミイ!八重山のおばあの歌物語』です。沖縄出身で85歳の通称「ナミイおばあ」が三線(さんしん)を生きる手段に沖縄の島々や台湾等を歌い巡り、それを在日3世の作家がドキュメントとして記録した本。読んでいる間、聴く人を喜ばすためなら何時間でも歌い続け、三線を弾き続けるナミイおばあのパワーに圧倒され続けました。
石垣島の貧しい家に生まれたナミイは早くにお母さんに死に別れ、9歳で沖縄本島・那覇の男の社交の街、辻町の料亭に250円で売られました。その250円はお父さんがサイパン島に働きに出るための渡航資金でした(南洋にはたくさんの沖縄人が働きに出ていました)。料亭でナミイは昼は徹底的に踊りと三味線の稽古をさせられ、夜は料亭仕事の手伝い。9歳の体にはきついスケジュールゆえ稽古をしながらこっくりこっくりしていると、竹鞭や三味線の胴でバシッと殴られたり、叩きのめされたりして体中あざだらけ。思い余って料亭を抜け出し、死ぬつもりで断崖絶壁へ行って、そこで眠ってしまったことも。幸運にも5年目に海軍を満期で除隊した叔父さんがナミイを買い戻してくれました。そしてお父さんに会うためにサイパンへ。戦争で日本が負けると沖縄に引き上げてきて、戦後の沖縄で仕事もなく食べるものもない中、ナミイが三線1つで家族の生活を支えました。そして料亭で知り合った馬喰と結婚。しかし遊び人の夫は大した仕事もせず、一番上の子どもが生まれてから成人するまでの20年ほどを歌と三線だけを支えに歌って歌って旅の暮らしを続けてました。この間の生きざまをナミイは得意の座歌「ストトン節」に乗せて歌います。少々長いのですが、歌い出したら止まらないのです。
アタシととうちゃんのなれそめは、
石垣島は、十八番通りの料亭千寿留屋(せんするや)。
アタシャ 売れっ子三線弾きで、
とうちゃんは牛、馬、商うバクヨーで、
金回りのいい遊び人。
このバクヨーに、うっかり借金したのが、
縁の始まり、運の尽き。
「ほう、とうちゃんが、金をかしてくれたのか。で、それから、どうした?」
この男、ツマもカノジョもありながら、
アタシのおうちにおしかけた、夜の夜中に、
「戸をあけろ!オレをいれろ!」
近所迷惑、アタシャ困惑、とうちゃん誘惑、
「金を返せとは言わんから、かわりに、オレの子どもを産んでくれ」
やぶれかぶれ、なりゆきまかせ、身をまかせ
切っても切れない深い仲
私があなたに来た時は ちょうど十八 花盛り
今に戻れと言うならば 元の十八しておくれ ストトンストトン
それにしても、バクヨーは、
人より何より、牛が大事、馬が大事、お金が大好き。
人に冷たい、縁を切りたい、逃げ出したい。
なのに、とうちゃん、執念深い。
逃げても逃げても追いかけてきて離さない
「きっと、とうちゃん、ばあさんを愛していたのさ」
子どもがふたり、できました。
とうちゃんは女ができました。
アタシの貯金、へそくり、那覇に買った小さなおうち、
とうちゃんがぜんぶとりあげました。
アタシャ、おかげで、いつも、いまでも、マルハダカ。
こんな男であるけれど、アタシはついに見捨てなかった。
「生まれた島で死にたい」
とうちゃんが言うから、帰ってきたさ、石垣島。
寝たきりになっても言うこときかんとうちゃんを、
心を尽くしてお世話しました。
死ぬ前に、とうちゃんが、一言
「ありがとう」
情けの言葉をかけてくれました。
「そんなことは、愛がなくちゃできないよ、なっ、ばあさん」
いい人間であるならば、捨てても拾う人がある。
でも、うちのとうちゃんのような悪い人、
アタシが捨てたら、いったい誰が拾うだろう!
だから、とうちゃんとアタシと、
切っても切れない深い縁。
私があなたに来た時は ちょうど十八 花盛り
今に戻れと言うならば 元の十八しておくれ ストトンストトン
この本にはナミイが歌う沖縄の歌がたくさん出てきますが(そしてその多くは沖縄の言葉と標準日本語?の両方で書かれています)、著者の姜さんはそれらの歌の社会的背景をよく調べています。それが、まるでナミイの生き様と歌(の記憶)で沖縄の歴史を語っているかのような印象を与えます。例えば「ちんらい節」。ナミイは歌詞を少し変えて歌っていますが、オリジナルは以下の歌詞です。
刀ナンゾハ 不要不要(ぶよぶよ)アルヨ
ケンカヨクナイ 麦マク ヨロシ
チャイナ ナカナカ ヒロイヒロイアルヨ
チンライ チンライ チンライ チンライ チンライライ
「アルヨ」となっているのは、うたっているのが日本国籍を取得した台湾人だからです。著者はこの歌の背景を以下のように説明しています。石垣島には台湾料理店が多く、その経営者は日本国籍を取った台湾人。パイン工場を経営している台湾人も多いそうです。台湾が日本の植民地だった戦前、台湾で乱立するパイン工場が一社に統合されたため、新天地を求めた台湾人パイン業者が石垣島に入植。しかし、水牛を使って熱心に山野を開拓していく台湾人に、いずれ島を乗っ取られてしまうのでは恐れた島の人々が激しい排斥運動を起こし険悪な関係に。しかし、石垣島を新しいふるさとと思い定めた台湾人は必死に島に溶け込もうとしました。そして戦後、パイン産業を沖縄の基幹産業の1つに育てたのでした。
さて、姜信子さんはなぜナミイにくっついて歌を聴き続けたのでしょうか?第4章「歌うわれらの世界の物語」で自分のことに触れながらその理由を語っています。ちょっと長くなりますが、ごそっと引用します。「そもそも私は旅人の家系に生まれた。大きなよりどころをもたず、転々と桃源の地を探し求めて流れ歩く。そんな旅人です・・・私はといえば、戦争と植民地で世界が賑わっている頃に半島から列島へと渡ってきて、列島の異邦人として生き続けた一族の子どもたちのひとりで、その中でも、とりわけ、自分の足しか信じない、そんな性分に生まれついた子どもでした」「どんな性分の旅人であれ、必ずかけがいのない旅の道連れがいるものです。それが、歌。すべてを失い、身ひとつで道行く者に最後まで寄り添っているもの、それが歌です。私もまた、物心ついた時には、もう、歌が傍らにいました」「自分が旅人としての性分を意識するような年ごろになると、ほうぼうの旅人たちを訪ねて歌声流れるところを巡り歩きました・・・ああ、歌って、記憶の器なんだな、絆の証しなんだな、存在の叫びなんだな、癒しなんだな・・・。ぶつぶつと自分自身に説明しながら、歌だけが頼りの私の赤い靴の旅はつづいたのです」「そしてばったり、おばあに出会った。しわしわと体も縮んで、歯もないけれど、南の島の海べの仮住まいの小さな四角い部屋で、朝から晩まで三線片手に、弾む毬のように歌い続けるおばあです・・・際限のないおばあの歌を聴き続けて、なるほど、わかりましたと歩き出すと赤い靴がくるりとおばあの歌声の方へ私を引っ張っていく・・・」。魂の伴侶ともいうべき歌を探し求める著者と「歌が命、命が歌。しかも、歌で神様を喜ばせ、浮世の人間たちを喜ばせれば、喜びの力でどんどん寿命が延びると信じている。だから、それはもう、命がけで唄う。命がけで喜ばそうとする」ナミイおばあが磁石のプラス・マイナスのようにぴったりくっついてしまったのですね。
それでは、最後にデンサー節に乗った、おばあのテーマソング「老後の花」を聴いて、この長いブログを終わりにします。
五十、六十が蕾なら、七十、八十は花盛り
私の人生これからと 希望の花を咲かせましょう
むかしむかしの物語、枯木に花が咲いた時
歳はとっても心意気 希望の花を咲かせましょう
心に光があるならば 日々が楽しく人生を
九十 百歳楽々と 花に輝く人生さ
※この本が出版された同年に『ナミイと歌えば』という映画になり、東中野ポレポレで上映されたそうです。

コメント