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「バルセロナで豆腐屋になったーー定年後の『一身二生』奮闘記」(清水建宇著 岩波新書:2025)

  • 執筆者の写真: 直樹 冨田
    直樹 冨田
  • 4 日前
  • 読了時間: 6分

 以前に井上ひさし著『4千万歩の男』を読んだことがあります。寿命がうーんと短かった江戸時代、55歳を過ぎてから17年かけて日本を歩き、実測による初めての日本地図を作った男の物語です。伊能忠敬は1745年に千葉県に生まれ、佐原村の大地主の婿養子になり、家業を拡大して49歳で隠居するとき、現在のお金で70億円ぐらいの財産を残したと言われています。このお金で「地球の大きさを知りたい」という知的好奇心から人生の後半生を天文学の勉強に励み、日本地図作りにかかった莫大な費用を賄ったそうです。歩いた距離は実に約43,000キロ(地球一周分)。井上ひさし氏は彼の生き方を「一身二生」と呼びました。

 『バルセロナで豆腐屋になった』の著者は元朝日新聞記者(論説委員)。朝日の日曜版に掲載された「世界名画の旅」の取材で世界15か国を回った中でスペイン・バルセロナが一番気に入り、退職したらバルセロナに移り住みたいという思いがほのかに芽生え、奥様も「この街なら住んでもいいわ」と賛成。しかし1つ問題がありました。それはバルセロナのアジア系食材店で売られている豆腐が豆腐とは似ても似つかない代物。豆腐や納豆、油揚げが大好きな著書は、それなしではとても生活できない。ではどうするか?と考えた末に自分が「バルセロナで豆腐屋になる」という考えが浮かびました。そして伊能忠敬の生涯と「一身二生」という言葉を知って、この夢想にピシッと筋金が入りました。定年退職をすると、わき目もふらず豆腐作りの修行をするため豆腐屋を探し、そのお店の近くに引っ越し、自転車をこいで午前5時にお店へ。3か月の修行で豆腐と油揚げ作りを学びました。次にスペインでの労働ビザですが、スペインで豆腐屋を開業すると決めたときに預貯金の全額をスペインの銀行の東京支店に預けていたので、問題なく取得。豆腐作りに必要な様々な機械や道具を購入してバルセロナに送りました。もちろん、スペインの語学学校にも通い始めました。そして現地で店舗を見つけ、労働居住許可が下り、片道だけの航空券で夫婦そろってバルセロナへ(子どもたちには「私たち夫婦はバルセロナに移住するから、学校を卒業したら自立するように」と言っていた)。こうして現地で豆腐屋を開業したとき、著者は62歳になっていました。

 バルセロナの豆腐屋の主(あるじ)の朝のルーティーンはこんな感じに描かれています。朝5時起床。歩いて店に着くとまずボイラーに点火。仕事着に着替えて冷却用の水槽に水を入れ、前夜に水につけておいた大豆を洗浄する。そして絹豆腐に取り掛かる。23キロの大豆を入れた桶を「エイッ」と肩の高さまで持ち上げて大豆を豆すり機の容器に移し、バルブを開いて蒸気を工房に流す。ドロドロの状態にして絞り機に移し、豆乳(とオカラ)を作る。水で溶いた凝固剤を入れ、温度を80度以上であることを確認してひしゃくでポリバケツに移し一気に型箱に流し込む。固まるまで20分かかるので、その間に今度は木綿豆腐に取りかかる。木綿豆腐の大豆を煮ている間に固まった絹豆腐をカッターで切れ目を入れて冷却用の水槽に沈め、水に放つ。木綿豆腐も似たような作業を行う。続いて油揚げづくり。さらに豆腐のパック詰作業をしてお店の棚に並べている。そうこうしていると11時半の開店時間となる――。2時半頃から従業員4人分の賄い(昼食)を作る。3時に店を一旦閉じ、5時に開けると再度店を開け、配達などの作業をする。

 定年退職までペンを握っていた元新聞記者が3か月修行しただけで、どうしてこんなにキツイ豆腐作りの作業ができたのでしょうか?その理由の1つとして、著者は学生時代の自炊生活が長く、料理が苦にならないどころか、趣味の1つになっていました。社会部に所属していた時、刑事から情報を取るため、深夜に帰宅し、朝早く家を出る生活が続いたため、奥さんや子どもと話す機会がない。それで家族とのスキンシップを維持するため、家族全員の日曜の朝食と夕食を著者が作ったそうです。

 この本の最後の章は「カミさんと私」。開業まで順風満帆だったように書いてきましたが、実は開業するまで、そして開業後もさまざまなトラブルに見舞われました(詳細は省略)。それで(かどうか)開業してから1年間で17キロも痩せました。豆腐作りに慣れない時期、体に変調をきたし、全身に発疹ができて眠れないこともありました。夜中に左半身が引きつって動けなくなったこともあったそうです。そんな時、佐賀出身で鍼灸師の国家資格を持ち、ヨガの先生でもあった奥さま(本文では「カミさん」と書かれています)が「私が治しちゃるけん」と言ってツボにお灸をすえたり、マッサージしたりしてくれました。そのおかげで、お店を開いていた10年余りの間1日も休まずに豆腐作りを続けることができました。

「カミさん」のお父さんは娘が結婚する際、結婚相手(=著者)に「美智子は生きるのに蛮勇を振るうことができる子」と書かいた手紙を送りました。34歳の時に乳がんと診断され局部切除の手術。2年後に再発してまた部分切除の手術。すると体力をつけるためにリハビリを兼ねて新聞配達を始め、さらに2年後に「モルヒネ漬けで死にたくない。鍼灸師になれば自分で鍼を打って痛みを減らせる」と(新聞配達で貯めたお金を元手に)鍼灸学校に3年間通って鍼灸師の国家試験を取得。続けてヨガ教室にも通い、自宅でヨガ教室を開いて教え始めました。バルセロナでは、お客の少ない日が続くと「もうダメかもしれない」と弱音を吐く主に「馬鹿ねぇ。今日来なかったお客は明日来るのよ」と励ましてくれました。しかしバルセロナに来て6年目にがんが再発。71歳であの世へ旅立ちました。そして豆腐屋も後継者に譲りました。

「おわりに」で著者はこう書いてこの「豆腐アドベンチャー」(娘さんの言葉)を締めくくっています。

「心穏やかな日常は、老境にある者にとってたいせつだ。それは容易に得られるわけではない。前半生の努力を重ね、さまざまな困難を克服してようやく手にするものだ。努力しても得られず、心安らかではない老後を過ごしている人が大勢いる。

 まったく違う後半生を生きようとする『一身二生』は、この心穏やかな日常を手放すということだ。不案内な土地で、不慣れなことに挑戦すれば、次々と問題に見舞われる。乗り越えられそうにない壁にぶつかり、途方にくれることもある。

 そのかわり、退屈とは無縁だ。何もかも自分の責任であり、自分で決める。後半生の定年は規則ではなく、自分の判断で決める。続けられると思えば、いつまでも続ける。(中略)苦労は山ほどしたが、それでも冒険した甲斐があった。新たに大勢の友人を得たからだ。たくさんのことを教えられ、学び、喜びを分かち合うことができた。バルセロナで豆腐屋にならなければ、永久に会うことがなかった人たちである。『心穏やかな日々』は手放したが、それに勝るとも劣らない『宝物』をもらったのだと思う」

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