文藝別冊「茨木のり子」増補新版(河出書房新社:2016)
更新日:6 日前
茨城のり子さんの詩を読み始めたきっかけは何だったのか、今ではすっかり忘れてしまいました。1990年に筑摩書房から出た詩集『倚りかからず』が朝日の「天声人語」で取り上げられ、詩集としては異例の27万部も売り上げたそうですが、あるいは私もその購読者のひとりで、それが彼女(の詩)との出会いだったかもしれません。言葉に対する感受性が乏しいためか、それまでいくつかの詩を読んでもあまり面白いと感じなかったのですが、茨木さんの詩は五臓六腑にストンと落ち、私の琴線を刺激したのです。
戦争が終わったとき20歳だった彼女は、青春を奪った戦争やそれを遂行した国に対しての強い嫌悪感や自分の青春が奪われたことすら自覚していなかった悔しさ(彼女は自らを軍国少女だったと告白しています)を土台に、鋭い社会批判や人間観察を感じさせる凛とした詩を書きました。その一方で(それにもかかわらず)平易で妙に明るく、時にユーモアがあり、未来に希望を感じさせる側面もありました。彼女の代表的な詩『わたしが一番きれいだったとき』の最初の4連(全部で8連)を挙げてみます。
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから青空なんかが見えたりした
わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった
わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆発っていった
わたしが一番きれいだったとき
私の頭はからっぽで
私の心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った
私がこの文藝別冊『茨城のり子』を読みたいと思った理由は、そんな詩人の精神の骨格を作った秘密を知りたいと思ったからです。普段はどんな人なのか?日常生活はどんなふうに送っていたのか?どんな本を読んだのか?どんな人とどんな会話を交わしたのか?以前に彼女の自伝『清冽 詩人茨木のり子の肖像』(後藤正治著)を読んでそれが少し見えましたが、この文藝別冊『茨木のり子』の目次を見て、上に挙げたいくつもの「どんな」の答えを深堀してくれると思いました。目次の一部を拾ってみます。
【インタビュー】
谷川俊太郎「生活の形を変えなかった人」
田中和雄「低い濁声で歌った『愛の賛歌』」
【茨木のり子との対談】
金子光晴「国家はもう沢山!」
吉原幸子「傷こそが真珠の核」
木下順二「民俗のことば」
【詩人による茨木のり子】
川崎洋「茨木のり子小論」
大岡信「茨木のり子の詩」
【論考】
若松英輔「見えない足跡――茨木のり子の詩学」
姜信子「麦藁帽子にトマトを入れて」
【茨城のり子未刊行アンソロジー】
「素描――川崎洋論」
「はてなマークーー工藤直子の詩」
「推敲の成果――書評『山之口獏全集』全4巻」
さらに詩人の井坂洋子さんと小池昌代さんが選んだ36の詩が二人の対談とともに掲載されています。
この本は2段組で300ページを超えていて、たくさんの文章が掲載されていますが(写真も豊富)、私の興味・関心を引いた箇所をいくつか抜き出してみます。まず井坂・小池対談から:井坂「だけど不思議な人ですよね。欲望が強くて、世界の隅々にまで目を見張ろうとする。時系列的にも、古代史が好きで、古代から未来までのことを書こうとする。そういうことを詩で果たそうとする欲望を持っているにもかかわらず、いろんなところに行っていろんな人に会っていろんな恋愛をして、ということは一切しないんですよ。つまり、そこがすごく矛盾している。意外とネガティブだったんだと思うんです。こんなポジティブな詩を書いていますが、ネガティブの強さみたいなものを最近感じました。ペシミスティックなところはないんですけど、受け身なんですよ。『倚りかからず』のあとがきに『振りかえってみると、すべてを含め、自分の意思ではっきりと一歩前に踏み出したという経験は、指折り数えて、たったの5回しかなかった』とあるんです。5回しかないんだ!って」、小池「わかります。だから詩の中に立ち上がる茨城のり子さんと実生活上の茨城のり子さんって、やっぱりずれていると思うんですよね。彼女は恵まれた環境が常に用意されていたように見えます・・・」。同じような感想を持つ吉原幸子さんも本人との対談でずばりこう尋ねています。吉原「・・・でも茨木さんの場合、少なくとも結婚されてからの家庭はとてもお幸せだったようですから、そうするとよく言われている『幸せだと詩が書けない』はずなのに、それからもどんどんお書きになっているのね(笑)」茨城「その定義はあまりにも杓子定規じゃありませんか」吉原「そうですね。だってここにも現に、幸せなのに怒りを外に向けた方が・・・(笑)」
しかし、幸せな結婚生活を送る中で、決して詩がすらすらと書けたわけではないようです。【茨城のり子未刊行アンソロジー】で工藤直子さんを論じた文章の中にこんな一節があります。「工藤直子の詩の特質の第1は、健やかだということである。病んでいない。どういうものか、詩は、近代以降、病める精神の所産と思われ過ぎている。病的な神経が鋭く時代を掴むということはあるけれど、これがパターン化されると厭になる。病んでもないのに、病んだふりをする亜流も多いので、ますますまいる」。そして川崎洋さんの詩も「大層清々しい」点が特質だとして、それを大いに評価しています。「邪悪なもの、俗悪なもの、意地悪なもの一切を含まない」「詩というものには清談の要素が不可欠らしいと気づいてからどれ位の時が経っただろう。いい詩というものは必ずそれを含む」。そして、特に気に入っている川崎洋さんの詩の中の4行を挙げています。
夜の雪の道を
雪のあかりで十分なほど
心を暗くした若者がたどっていったり
するのだろうか
茨木さんはこの4行に心を支えられた経験をこう書いています。「心が暗く沈み、やり場なく、男だったらこういうときに飲んでへべれけになるのだろうかという、鬱の鬱たる日、とぼとぼと歩いていて不意にこの行がひらめき、大きく慰められるのを感じた」「こういう美しい詩が書けるのは、川崎さん自身、雪あかりで十分なほどの心の暗さに何度も耐えてきたからなのだろう」。茨木さんもまた「心が暗く沈み込んだ」「鬱の鬱たる日」に耐えて、精神が病んだり邪悪になったりすることなく、ようやくのことで健やかで清々しい言葉たちを紡ぎ出していったのではないでしょうか。
もう1つ、受け身ではない側面を抜き出して終わりにします。茨木さんは1976年から(50歳をすぎてから)ハングル語を習い始め、1986年に『ハングルへの旅』を著しました。詩人の暁方ミセイさんはその理由を「彼女のことだから、日本人が無理やり日本語を話させようとした人たちの言葉を、反対に自分は勉強しなければならないと思ったんじゃないかという気がする」と想像します。苛烈な軍事政権の支配下にあった1970年代後半、日本語を話すだけで怒鳴られたり殴られたりしたという韓国の草深い田舎町へ、茨木のり子さんは団体ではなく一人で入っていって対話の旅を続けたと作家の姜信子さんは指摘しています。バスもめったに通らない、一面のゆらゆらと揺れる田舎まで出かけていったそのまっすぐな覚悟。そして1990年には「韓国現代詩選」を著すほどに重ねたすさまじい勉強ーー。
まだまだ抜き出したい箇所は山ほどありますが、もう紙幅は尽きました。この本で茨木さんをよく知る人たちが様々な角度から彼女(とその作品)に光を当て、茨木のり子さんの多面性をうかがい知ることができました。
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